今回は東京の名湧水57選でもある、等々力渓谷の形成を解説していきたいと思います。
等々力渓谷は、谷沢川という川が流れる、きわめて深い渓谷です。今回はなぜ、こうした深い谷ができたのか。「河川争奪」という視点から解説していきます。
1.九品仏川と吞川
東京西南部5万分の1地質図幅に加筆したものです。青い点線が吞川水系、青い実線が吞川水系九品仏川です。呑川は東京湾にそそぐ二級河川であり、多摩川に合流することはありません。これが第一段階です。ちなみに多摩川のすぐ北側には国分寺崖線が見えます。茶色や紫色の線が左上から丸子橋あたりまで続いていますね。
国分寺崖線とは
古多摩川が武蔵野台地を侵食する際に形成された、河岸段丘の連なり。立川市から東南方向に延び、大田区の田園調布付近まで続いている。最大で20m程の高低差があり、地層が露出するため地下水が湧出しやすい。多くの湧水を擁する国分寺崖線沿いには、湧出した水を集めながら流れる「野川」が多摩川に注いでいる。
国分寺崖線は森に覆われており、古くから薪拾いなどに活用され、また湧出する清水は農業や飲用として用いされてきた。現在では武蔵野の原風景を残す貴重な自然環境となっている。
2.国分寺崖線からの谷頭浸食
さて、前項で国分寺崖線には湧水が見られると書きました。国分寺崖線からの湧水は多摩川水系の河川などを経て多摩川に注ぎます。その経路については今回は割愛しますが、要は赤線で示すような、国分寺崖線から多摩川にそそぐ、湧き水の小川が形成されます。そして、この小川は上流方向へ流路を拡大していきます。この作用を「谷頭浸食」と呼びます。
谷頭浸食とは
周囲から流入する表面水や斜面からの湧出水によって浸食が進み、谷頭が上流に後退して谷がしだいに延びる現象。谷頭では最上流部に湧水が存在する。「谷頭式」の湧水は、東京で一般的な「崖線式」の湧水と比べ涵養域が広いとされている
3.九品仏川流路と小川
国分寺崖線から谷頭浸食を続けてできた小川(赤線)はついに九品仏川の流路に達します。
小川による九品仏川の河川争奪
水は高い方から低い方へ流れます。もっと言えば、仮に急な流路と緩やかな流路の二本があった場合、急な流路へ流れます。国分寺崖線を侵食してできた小川は急流です。一方で呑川水系九品仏川はなだらかに東京湾へと注ぐ河川です。つまり、流れの急な小川の方に、九品仏川上流部(赤線)は流路を変えたのです。この一連の流れを「河川争奪」と呼びます。こうして、九品仏川の流路であった赤線部は小川に吸収され、多摩川に注ぐ河川となります。この川こそ、谷沢川なのです。
九品仏川の寸断と逆流
河川争奪によって水を失った九品仏川は、川として必要な分の水を確保できる地点まで、源流を下流方向に移します。そのため、九品仏川中流域であった部分は川が枯れます。そして、中流域が枯れたことで行き場を失った水(赤線T字の右部分)は浸食作用により谷沢川へ注ぎ始めます。今まで東方向に流れていた水が西方向に逆流したのです。
等々力渓谷が深い理由
最初に投げかけた問いの答えですが、等々力渓谷は以下の複合的な理由により深く削られたと考えています。
第一に、河川争奪前の小川の水量よりも圧倒的に多い量が流れ込んだため、浸食作用が強く働いた。第二に、河川争奪地点から多摩川までの高低差が激しく、浸食作用のうち、側方浸食よりも下方浸食が強く働いた。第三に、そもそも今回「小川」と名付けた流路は河川争奪前に湧水の谷頭浸食で形成されているため、深く地形を削っていた。
要因を一つに絞り込めないのが自然科学の面白いところではありますが、曖昧な回答ですね。
最後に。
最後に、等々力渓谷の形成や谷沢川の流路に関する説明は、貝塚爽平著『東京の自然史』に基づきます。また、一部個人の考察が含まれており、貝塚氏の説明とは差異があります。そして、谷沢川の流路変更については、人工的に開削したとの説も存在しています。「河川争奪」説はあくまでも一説に過ぎないとお考え下さい。
反論、異論等はぜひコメントにてよろしくお願いします。
それでは。
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